山中 満月
私たちは、税金について知らなさすぎるとこの話をする度にそう思う。あまりにも税金が私たちの生活に浸透しすぎていて、いつ、どこで誰が何のために税金を管理しているのかが目に付きにくい。私たちは、消費税等でお金について負担しているため、「払っている」という感覚がなかなか抜けない。本当は医療・保健サービスの提供や学校等の公共施設の設立に使われているので、言わば過去の世代に「払ってもらっている」と言った方が適当であると個人的に感じる。また、私たちが納めている税は、国の収入の6割を占めているのだから、日本にとって納税は必要不可欠で財政の命綱といっても過言ではないのだ。
今、頭の中で、生活の中に税を感じられる物事を思い浮かべている。思い浮かぶのは、今年の春に天国に旅立った祖父のことだ。祖父の葬儀には、コロナの流行期ながらも沢山の親族の方が来て下さった。それに、予定の都合などで来られなかった人も含めれば、祖父は周りから愛されている人だったんだなと実感した。まだ長く生きられるはずだった祖父を、長い入院期間中ずっと支えてくれたのは、病院の人たちだと思う。うちは元々裕福といえる家庭ではなく、お世話になった医師さんたちに普通にお金を払うとしたら、相当な負担になっただろう。しかも、母は自律神経失調症という心の病気を抱えて生きている。そんな祖父や母の姿を見て、やはり思うことといえば、保健・医療サービスの提供に感謝ということだろう。医療関係者の人たちの支えがなければ、母は今、私の傍にいなかったかもしれない。祖父も立派な最期を生きられなかったかもしれない。そう考えると、すごく怖い。
しかも、今の私には成し遂げたいと思う夢がある。それを達成するためには、高校を卒業して専門学校や大学に進学しなければならない。そこで今までの小・中・高の教育費は一体どこから支払われていたのだろう、と考えることがある。ここでも税金なのだ。こう考えてみれば、私の周りのことはほとんど税金に支えられているではないか。いや、私だけでなく、この国のほとんどの人たちが税金に支えられて生きている。ならば、私たちが税金を納めるのは当然で、常識ではないか。時折、公務員の汚職報道で、「あの人たちの収入は私たちが納める税金なのに。」と、払う気が失せることすらある。だがその度に思うのだ。今の私たちに、今の私たちを支えることは難しい。でも未来を支えることはできる。常に前向きな気持ちでさえいればいい。すぐに全員がそうすることは難しくても、だんだん各自がそう思うようになって、次の世代にも受け継がれていけばいい。今は、その「だんだん」の段階であると私は信じたい。